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3月11日、東北LOVEオフ会に寄せて

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こんにちは、どん浴の大路です。

 

3月11日に予定している東北LOVEオフ会、すでにお申し込みをくださった方々、ありがとうございます。

 今回のオフ会にあたって、どんな思いがあって開催するのかを書こうと思いブログを更新することにしました。

 

…が、今回のブログは大変長いそして暗いです。

このまま読み進めるかどうか、↓のイラストをご覧くださいませ。

 

 

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1.「あの日」当日

 

はじめ小さかった揺れが大きくなって机の下に潜り込んだ。震源地はどこだ。昨日と一昨日も東北で大きな地震が起きている。まさかとは思うが、不安が募っていく。

揺れが収まった後すぐに両親と友達にメールする。誰かが宮城で震度6強と言った。最悪だ。

早く返事くれと祈りながら、引っ越し作業を再開する。

心配だが他にすることがない。母からはすぐに返事が来る。まず一安心。

頼むからみんな無事でいてくれと思いながら段ボールを運んでいたら、食堂のテレビに人だかりができていた。津波警報が出ていた。釜石市の高架が写った。

橋脚が妙に短く見える…津波って普通は湾の外まで来ないだろう…なんだこれ…。大船渡のばあちゃんたちと、岩沼のおばちゃんの事が頭に浮かんだ。一旦席に戻る。

これ、当時の私が書いていた記録からの抜粋です。

 

 

地震のあった当日、私は東京の会社で席替えの引っ越し作業をしていました。

地震直後に仙台の両親の無事はなんとか確認がとれたものの、そのほかの親戚や友人の安否は全て分からなくなりました。

 

 

テレビから繰り返し流れてくる断片的だけど凄惨な映像に、「あの人は助からないかもしれない」という不安ばかりが掻き立てられて、そんな数時間前の様子はいいから現在の状況を正確に知らせてほしい、情報が欲しいという焦燥感に駆られていたのを覚えています。

 

2.とにかく手がかりがほしい

 

それからはテレビでニュース、PCのテレビチューナーを起動して安否確認のチャンネルを見ながら、ネットで安否情報を集め続けた。

Googleで名前を入れて安否情報を確認できるサイトができていた、試しに入れて見るも出てこない。

テレビで避難所が映されれば、知った顔がないか探す。伝言ダイヤルにもかけてみるが、メッセージはなかった。

テレビの安否情報は、関東から東北の人間に「連絡欲しい」というメッセージばかりだ。ほんの少しでも手がかりが得られれば、実家を心配している母を少しでも楽にできるかもしれないのに…。

 

それからあちらには殆ど情報がないらしい。仙台市仙台市水道局と東北電力のサイトを常に立ち上げて、給水所や病院の情報が入ったら送る。

送る情報は慎重に選ぶ。あちらは電気がない、携帯の電池の消費は極力避けたい。

 

中略

 

それからツイッターにユーザー登録をした。勝手は分からないが簡単そうだ。

多賀城 桜木 と入れてツイートを検索した。殆どが実名を入れての安否確認だった。

私も20代の女性と年配の女性を桜木周辺の避難所で見た方はいないかと入れてみたが、返信なし。

ここでそもそも自分の身を守るので精一杯な人間が、遠方の人間に無事を伝えようという発想に至るはずがないということに気付いた。

それでもおとなしく待つことはできない。検索を続け、「連絡が取れた」というツイートを探す。

翌日からはネットとテレビでの安否情報の確認やら、給水所や電力復旧の情報を現地に送る作業に追われていました。

 

余談ですが、Twitterやその情報をまとめたサイトなどは役に立ちました。連絡が取れた、というツイートをした人にDMを送って詳しく状況を聞くことができ、「この場所にいたとであろう友人はきっと無事」という程度の情報は得ることができました。

 

テレビに岩沼が映った。祖母が息を引き取った海沿いのホスピスの一階が浸水して、屋上で職員たちがSOSを掲げていた。なんてこった最悪だ。

その後兄から電話が来たとき、こうなる前に祖母が亡くなってくれていてよかったという話になった。死を待つばかりで安息を得るはずだった場所で、溺れて死なれしたら本当にやりきれない。

だが電話を切ったあと、そうやって亡くなった人と、そうやって家族に亡くなられてしまった人がいるのだと思った。涙が出た。

情報収集を続けていると、当然ながら現地の状況を知ることになります。

私の大事な人たちが運よく避けられた災難に見舞われた人が確実にいて、時間が経過するごとに、どれだけたくさんの人が悲惨すぎる目にあったのかが次第に明らかになっていきます。

 

テレビから流れる知っている土地、よく知った言葉のイントネーション、どれもが圧倒的な現実を私に思い知らせるには十分すぎて、被災した人達を思ってはいたたまれなくなり、まだ安否が分からない私の大事な人を思っては焦燥感が募り…といった状況でした。

3.何もできないことへの無力感

 

母に状況はどうとメールした。返信には「食糧とガソリンの入手が困難ですが、何とかなると思います」と…地震発生から一番こたえた。涙が止まらない。

 

そうなのだ、無事というのは地震で死ななかったというだけの話で、その人たちは今やっと生きているだけなのだ。手に入るか分からない食糧を買うために、寒空の中並ぶ母親を想像するとやりきれない。

今すぐにでも行って助けたいが、今行っていいのは自衛隊や災害のプロであって、私のような一般人は何の役にも立たない邪魔者だ。第一行く手段がない。

できることと言えば励ましと情報提供くらいだ。ツイッターで近所のスーパーの情報がないか探し始める。

なのに母親は、こちらの停電と余震を心配してメールをしてくる。食糧や灯りはあるかと。

いいから生きることに集中してくれと思ったので、こちらは郊外だから物が手に入りやすい、大丈夫と送る。正直近所のコンビニは全く食料品がなかったが。母の返信と同時くらいに、大行列の調布のスーパーが映った。

この知らせをもらったとき、なんで私は地元を出たんだと心底後悔しました。

いたところで何ができたわけでもないかもしれないけど、今よりはよっぽどマシだと。

ここにいたって本当に何もできない。いま必要なのは励ましなんかじゃなくて物資なのに、と。

ここまで自分の無力さを思い知らされたのは初めてだったと思います。

似たようなことをmixiに書いている同郷の友人もたくさんいて、きっと、当時上京していた被災地出身の方は似たような無力感を覚えたのではと思います。

 

そしてこのあたりから、地震発生当初から感じていた、この震災についての「認識の温度差」に苦しむことになります。

4.所詮、対岸の火事…?

 

そうこうしている間に、神奈川工場から連絡が入る。福岡からある製品の依頼が来たと言われた。聞いてないなと思ったので、Kさんに確認してもらう。Hさんが依頼したらしいが、今まで忘れていて急依頼になったらしい。それを、宮城工場が被害を受けて物が出せなくなったとお客さんに説明したらしい。Kさんが笑いながらそう言った。今まで聞いた中で最悪の言い訳だ。PCのアラームが止まらないのを聞いて、Sさんが「津波来たかと思っちゃうだろ」と言った。今まで聞いた中で最悪の冗談だ。

 

中略

 

そして宮城工場の状況の話になった。Uさんが目を赤くしながら、現地の社員に思いやりを持ってくれと言った。宮城工場の人の個人携帯に仕事の電話が入った、そういうのはやめてくれと。……それ本当か?信じられないくらい最悪だ。

電気も水もなくてろくに食べてもいない、自分は無事でも家族や友人は亡くなったかもしれない。携帯の充電だって貴重だ。そんな人に、「俺の頼んだ製品はどうなってる」なんて聞いた人間がいるのか。涙が出そうになったが、必死でこらえる。脈拍がとんでもなく早かった。走ってもいないのに、こんなに早くなるは初めてだった。

もちろん、本当にこの状況に心を痛めて行動してくれた人も周りにもたくさんいました。

日に日に追い込まれていく私を思って泣いてくれた人も、文句ひとつ言わずに全面的に協力してくれた西日本の営業所や工場の人もいました。

 

33歳になった今なら、心ない言動をする人は一部だと割り切れるのですが、当時まだ25歳だった私には、一部の人の心ない言動は他者全般に対する失望感へと変わっていきました。

 

現地の状況に思いを馳せて悲しみ、まだ安否の分からない人たちを考えては焦り、無力感には打ちひしがれて、さらには他人に失望して、あまりに目まぐるしく入れ替わり立ち替わり襲ってくる負の感情に心が削ぎ取られていくのを感じながら、それでもあの人の「無事」の知らせが欲しくて、ほんの少しの手がかりを探していた…

 

それが、私にとっての東日本大震災だったと言えると思います。

5.福島の友達に励まされる

 

それでも救いをくれた言葉はありました。

 

私は当時メーカーに勤めていましたが、作っている製品はなくても明日生きるのに困るようなものではなく、それがまた私の無力感に拍車をかけていました。

いまこんな製品、世の中のどこも必要としてないと思っていましたし、そんなことしかできない自分が情けないと思ってたんですね。

 

それでこまめに連絡を取っていた福島の友人に思わず愚痴ってしまったら、こう返ってきました。

 

福島のMちゃんに「今の私の仕事は何の役にも立てず申し訳ない」と言ったら、「いやいやこれから復興に向けて忙しくなるよ!経済回さないと」と言われた。原発で怯えていた人間から復興の言葉が出た。なんで被災した人間ばっかりこうも前向きなんだ。

 

地元にばっかり意識が向いていた私は言われて気づきました。

無事な地域でなるべくいつも通りの生活を送るのが、少なくとも経済活動という点では復興の助けになるということに。

 

何もできないと思っていた私にとっては、本当に救われる一言でした。

 

明日も仕事行こう、何もできないことに変わりはなくとも、ほんのちょっと経済を回す力になるなら、少なくとも無意味ではないんだなと思えるようになりました。

 

 

 

6.何もできなかったなりに思うこと

 

大して自分は被害も受けてないのに右往左往するばかりで、本当にあの時は何もできなかった私ですけど…

もし私と同じように、あの時に何もできなかったとか、何かしたかったけどどうしていいか分からなかったとか思っている人がいたら、少しは声を掛けられるかなと思います。

 

あながた今日まで生きてきたということは、程度はどうあれ社会に関わってきたということだし、それってきっと2011年から今に至るまでの復興のプロセスに加わってきたって言えるんじゃない?

 

という感じで。

 

そしてあの日からもうすぐ8年が経って、まだまだ復興の道は遠いかもしれないけど、あるところは元通りに、あるところは新しいものが生まれ、少しずつ彩りを取り戻していく東北の好きなところを集まった人と話せたら、それって素敵なことじゃないかなと思います。

そういうささやかな思いで去年からはじまったのが、東北LOVEオフ会です。

もし、行ってみたいけど東北の出身じゃないとか、自分は震災のときに大変な思いをしたわけじゃないとか、逆にあの日を思い出すとか、そういう方にもぜひ来てほしいです。

 

前回も東北あるある話とか方言ネタとかですごく盛り上がりまして、とても東北愛に溢れた温かい会でした。

またあんな風に盛り上がれたらと思っています。

 

イベント概要

日時:2019年3月11日(月)19:00~22:00
場所:足湯cafe&barどん浴
   アクセス→https://donyoku.dosl2018.net/234
会費:2000円(2ドリンク・玉こん・芋煮付き)
条件:①LGBTQもしくはAllyで東北が好きな方
   ②東北の食べ物または飲み物を1品持ち寄れる方

 

お申込みはこちらから↓ 

www.kokuchpro.com

 

それでは、イベントであなたにお会いできるのを心よりお待ちしています。

 

 

 

どん浴HP→http://donyoku.dosl2018.net/

どん浴Twitterhttps://twitter.com/donyoku2018

大路香里Twitterhttps://twitter.com/Donyoku_oji

 

 

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